不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第101回 阿部康雄さんと解り合えた  2020年6月2日

 1997年は私にとって山あり谷ありの一年でした。1月最初の花月園共同通信社杯は1着・4着・失格から始まりましたが、脚の調子はとても良く2月に入りました。2月の斡旋は静岡記念とふるさとダービー防府の2本だったと思います。競輪選手は常に勝負をしているのでイケイケの若い頃には度々衝突も起きます。でもそれは頑張っている証拠なので、共に切磋琢磨し成長しようという高め合う意識であれば生き生きとして良い光景だと思います。
 今回は静岡記念での話をしたいと思います。その静岡記念、初日特選の関東ラインは太田真一ー後閑信一ー阿部康雄の並びでした。レースでは超一流の山田裕仁選手が相手でしたが、私達関東ラインもスーパールーキーの太田真一選手という心強い機動型がいましたから負けたくないシリーズでした。太田選手が前を取って引いて7番手で最終HSを通過、太田選手をマークしていた私と阿部康雄選手は8番手、9番手の展開です。しかし、私は後ろから見ていてまだ太田真一選手が全然力を使っていない状態でしたので、太田選手の力なら一気に捲ってしまう雰囲気を感じていました。そして太田選手が2コーナーから捲りを仕掛け3コーナーにさしかかろうとした瞬間!私の後ろ3番手の阿部康雄選手がもの凄いスピードでインコースをすくってきたのです!その煽りで太田選手は外に膨らみ捲り不発、、。結果、阿部康雄選手は最終バック9番手からの1着!近況の点数も117点を上回り流石の脚でした。
しかし、太田選手の番手を走っていた私はどうしても納得がいかず、自転車を降りてすぐに阿部康雄選手に物申しに行ったのです!私は「阿部さん!太田はあそこからが強いんです!2コーナーではまだ全然余裕がありました俺はそう判断していました。太田もそう感じていたはずです!」私は65期。阿部康雄選手は68期で期は後輩ですが、歳は3つも4つも上の先輩です。私は生意気にも食ってかかったのです。すると阿部康雄選手は「後閑、お前はレースで1着を取るために走っているんじゃないのか?それがプロなのではないのか?」と返されました。確かにその通りです。私もそのレースではコースを見つけて2着に突っ込みました。が、しかし、私はそれに対して「太田が仕掛ける前に邪魔する事ないじゃないですか!そこまでして勝ちたいのならラインとかいらないですね。もっと信頼して下さいよ!」と両者、一歩も引かない状態になりまた。
 そんな感じで初日からモヤモヤしながらの宿舎生活。私も生意気でした(汗)。でも、群馬と新潟は昔から冬季移動で交流もある同県みたいなもの、新潟の阿部康雄選手といえば弥彦競輪開催時のイベント(素人脚自慢競走!)の優勝をきっかけに会社員から一念発起し、競輪学校第68回生に合格!卒業記念レースを優勝するほどの実力と話題性に富んだ選手。人柄も穏やかで私も大好きな選手です。だからこそ言い合えたのだと思いますが、今となってはお互い良い青春をした思い出です(笑)。
 そして準決勝、阿部選手とは別のレースでしたが、私は打鐘先行で逃げ残り決勝戦に進出しました。優勝候補の山田裕仁選手も勝ち上がり、売り出し中の先行・捲りの堤選手も勝ち上がってきました。ただ誤算だったのは、心強い味方の太田真一選手が敗退してしまった事です。関東勢は阿部康雄選手と東京都・恩田繁雄選手が勝ち上がり、決勝メンバーが出揃いました。優勝候補の山田裕仁選手には南関勢が分かれて神奈川県・遠澤健二選手がマーク。そして先行・捲りで勝ち上がってきた新鋭・堤洋選手には千葉県・滝澤正光選手がマーク。そして東北勢は鋭い捲りのキレる秋田県・高橋慶幸選手に青森県・小原則夫選手がマーク。そして残るは初日のレース後に揉めた私と阿部康雄選手に関東の大先輩、恩田繁雄選手です。
 検車場で記者の方に各選手のコメントと並びを聞きながら阿部選手の事も聞くと、単騎でのレースと書いてありました。そのコメントを聞いて恩田選手は「阿部くんが行かないなら後閑に付ける」とコメント。私は恩田選手に「明日よろしくお願いします・頑張ります!」とご挨拶をしました。しかし、初日の一件から私のモヤモヤは続いていました。それは新潟と群馬は同県の様なもの!今後の事もあるので私は再度、初日も連携をした阿部康雄選手のところへ行き生意気なところは詫びながらも、私のレースへの筋道や初日のレースの見解など自分の想いも伝えました。そしてお互いに話し合い分かり合えると阿部さんはコメントを変更!自力で戦う私の番手にマークしてくれる事になったのです。そして2人で東京の恩田先輩のところへに行き事情を話し、快く受け入れて頂いて第45回静岡記念、決勝戦の関東ライン(後閑信一ー阿部康雄ー恩田繁雄)の並びが出来たのです。私は阿部さんに分かり合えた嬉しさもありましたが、後輩達のわがままを快く受け入れてくれた寛大な恩田先輩にも明日は迷惑をかけないように!と俺のやることは1つ!と心に決めて就寝したことを今でも覚えています。
 そして決勝戦のスタート!ラインは4分戦(後閑ー阿部ー恩田)(高橋ー小原)(山田ー遠澤)(堤ー滝澤)の順で周回が進みます。阿部さんにはライン戦の良さや大切さを伝えたかった事と、、私達後輩のわがままにも関わらず、黙って3番手に引いて下さった恩田先輩の為にも、ラインが3車になった利を生かしてこのレースでも必ず主導権を取って関東から優勝者を出したい!という思いで走っていました。残り2周で山田ラインが上昇してきました。私は車を下げると堤ラインが打鐘で先頭、私は関東勢以外は2車なのでどのラインも早めの先行は無いと思っていました。すると高橋ラインが堤ラインをイン切りに行ったのが見えたので、私はすかさず叩き先行態勢に入ったのです。最終HSでは一列棒状!まだまだ踏み上がる余裕もありました。最終BSも一列棒状!山田ラインは6番手のはず、、。最終2センターまだ誰も来ない!4コーナーいい感じ!そしてゴール寸前でマジで逃げ切れるかも!と思いましたが、阿部康雄選手の車輪が見えました。阿部康雄選手の記念競輪初優勝です!
 初日から色々ありましたが、阿部選手の記念初優勝にも貢献できた事と私も阿部さんや、恩田さんに付いてもらえたことで積極的なレースが出来て力を出し切れた事、そして改めてラインの心強さというものを実感しました。帰りの車の中では疲労感の中にも阿部さんと解り合えた結果、ワンツーという成績は今でも思い出に残っています。阿部康雄選手はその後、6回の記念競輪を制覇し現在も現役で走る鉄人レーサーです。私はこれからもずっと応援しています。

ページトップへ