不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第104回 今でも責任を感じる失格  2020年6月22日

 ケイリンGP’97のメンバーは1番・児玉広志選手。2番・鈴木誠選手。3番・浜口高彰選手。4番・小橋正義選手。5番・神山雄一郎選手。6番・東出剛選手。7番・山田裕仁選手。8番・後閑信一。9番・吉岡稔真選手。超満員の立川競輪場、並びは山田ー浜口・神山ー後閑・東出ー鈴木・吉岡ー小橋・児玉という隊列でレースは進みます。周回は7周、距離は2825m発走機では地鳴りの様で圧倒されるも何とも気持ちの良い大歓声!この日の為に頑張ってきて良かった!とホームストレッチを通過するたびに思っていました。そして周回が重なる毎に気持ちは自然にゾーンへと入り、残り2周の赤板を迎えました。
 ファンの方の声援が一段と大きくなったのを覚えています。後ろから吉岡ラインが押さえてきました。単騎の児玉選手は吉岡ラインに乗って3番手を追走で打鐘を迎えました。神山選手はスッと児玉選手の後ろに切り替え吉岡選手を叩きに行こうとした瞬間、私の後ろにいた東出ー鈴木ラインが私を挟む形で神山選手の後ろに来たのです!突然挟まれた私は正直「あっ落車する!」と思うほど不意打ちに、しかも厳しく締め込んで来たのです。記者会見でも新聞のコメントにも全くそのようなそぶりはなく、当日の顔見せでも私の後ろに付いていたので、先ずは関東ラインに付けて後手を踏むようなら切り替えて混戦を突っ込んで来るものだとばかり思っていました。勝負の世界!私が甘かったのです。その瞬間、歓声がうおー!と上がったのも覚えています。私は何とか立て直して神山選手の後ろに食らいつこうと神山選手を追いました!神山選手が先頭に立ち吉岡選手を警戒するとペースが少し緩みました。東出選手がその動きに詰まり外側に膨らみ内側のコースが開いたのです。私はその一瞬の隙を逃さず飛び込んで行ったつもりで、とにかく必死でした。それは私の中で人気に応えなければ!という強い思いしかありませんでした。オッズは神山=吉岡人気から始まり、途中で神山=後閑の車券も一番人気になる程、人気は接戦でした。、、、引いてきた吉岡選手を避けたつもりの(庇い頭)が吉岡選手を落車させてしまったのです。そして東出選手との踏み合いになり、競り合いには勝ちましたが、絶妙なタイミングで山田選手が外を踏み上げて来て追い上げの形になってしまったのです。神山選手の番手を取りかえそうと必死にペダルを踏みましたが、競り合いに脚を使いスピードが落ちてしまいました。私のスピードはもう踏んでも踏んでも上がりませんでした。先行する神山選手の後ろに入った山田選手がケイリンGP’97を優勝しました。
 私は失格となり、多くのファンの方にご迷惑をかけてしまいました。それは、私8番車と吉岡選手9番車は同枠の6枠で神山選手5番車の4枠と人気を集めていましたから、6枠の両名が落車と失格となり大変な事態を引き起こしてしまいました。そして吉岡選手にも申し訳ない思いと、神山選手に対しても合わせる顔のない情けない思いで控え室にいたのを思い出します。そして医務室の吉岡選手のもとへ謝りに行き、選手管理室にも呼ばれて長い間、競輪場を出られなくて留まっていました。どれだけたくさんのお客様に1997年の年末をガッカリさせてしまったのだろう。現役中は勿論、引退をした今でも責任を深く感じております。私がそれから何度でも立ち上がり頑張る事が出来たのは、その想いもあった事は間違いありません。その気持ちはあれから23年経った今でも変わっていません。そんな思いで年越しを迎え1998年、私の崩れる年を迎えるのです。

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