不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第118回 神山さんの番手は他地区に渡せない  2021年1月16日

 前号でも触れましたが、神山さんとの数ある連携の中で思い出深いレースは、神山さんが先行をしてくれて初優勝したG1小倉競輪祭と京王閣のG2共同通信社杯です。その京王閣共同通信社杯決勝戦は色々とありました。成績は6・1・1・着でしたが、その決勝戦のメンバーが「群馬王国」の復活か?と思わせるような4人が乗り合わせました。私、後閑信一・井上貴照選手・稲村成浩選手・手島慶介選手とその当時では蒼々たるメンバー。しかも皆、自力選手!強いて言えば私が追い込みもこなせるくらいでした。
 なので準決勝戦が終わった時点で群馬勢に記者さん達が集まります。競輪選手の辛いところはレースが終わると、なるべく早くその場で明日の走り方やラインの並びのコメントを出さなければなりません。コレは間違えたコメントをしてしまうと、今までやってきた自分の筋道にブレが出たりしてしまいます。追い込み選手は特に筋の通った「競輪道」が大切なのです。ですから私は私生活の時でも「あいつが次回開催でこう出て来たらこう返す!」とか、それは筋が違うから「引く理由が無いから競りだな!」とか点数がどうだとか、「向こうの地元だから最悪雰囲気を読ませて貸しを作っておくか、、」とか年中そんな事ばかり考えていたので、家ではしかめっ面ばかりしていたと思います。そう思うと今の選手は、その場その場のレースで筋が通らなくても、良く言えば「クール」な考え方の選手が多い様です。人間がやるから面白いとか、人間模様とか言っている割には、その辺の泥臭さが面倒くさいのか?生き様の魅せ方や義理人情などという言葉が消えつつあるようにも思います。
 話は戻りますが、決勝のメンバーは関東勢は群馬が4人で栃木の神山さんが1人の5人と嬉しい悲鳴です!他地区のメンバーは京都の松本整選手と千葉の米田勝洋選手、香川の児玉広志選手、岡山の小川巧選手の9人です。はじめは関東5人でまとまろうという思いだったのですが、全員自力というメンバー構成、群馬では当時一番年上だった私と井上選手が話し合い「皆にチャンスがあるように!」と「日本一で関東の神山さんの後ろを他地区の選手に明け渡す事は出来ない!神山さんのハコに行ってもいいか?」私の考えを井上選手に想いを伝えました。すると井上選手は「俺はいいと思うよ!後閑の想いは間違ってはいないと思う」と言ってくれました。そして次に稲村選手に話しに行くと、群馬より神山さんを取るのですか?というような雰囲気を感じてとれました。そして手島慶介選手に話すと、「僕は一番下ですから先輩方にお任せします!」と言ってくれました。稲村選手には「人間は感情のある動物ですから」とよく言われていました。その通りです。しかし、私は感情的にならず冷静に稲村選手に頭を下げ並びが決まりました。そして神山さんの番手を主張させてもらいました。
 結局、並びは神山ー後閑・稲村ー井上ー手島・児玉ー小川・松本・米田という事になりました。しかし、またここで問題が発生したのです。単騎で走ると言っていた米田選手が直前になって「神山の番手」を主張してきたのです。私は競る気満々でいたのですが、米田選手から中々その「氣」を感じませんでした。おかしいな~と思っていたら千葉県の選手に「行かなくていいのか~」とか色々言われていたと風の噂で聞きました。その気持ちがレースにも表れていて中々私の横に来ませんでしたから、多分イン競りが良かったのでしょう!当時のライン戦では主張した以上、競輪道・追い込み道的には競りに行く立場なら「外競り」が基本でしょう~と思いながら走っていました。
 レースは残り2周で群馬勢が押さえに来ました。打鐘で神山さんの後ろは私と米田選手と稲村選手の3車併走になりました。先頭誘導員が退避した瞬間に勝負は始まりました。神山さんが何と稲村選手を突っ張ったのです。しかも「オラッ~」と雄叫びをあげて体当たり気味の突っ張り先行を敢行したのです!これには後ろにマークしていた私も「絶対にモノにする!」という気合いが入りました。稲村選手は外に膨らみ万事休す!しかし、彼にもただでは終われない執念を感じました!雨の京王閣バンクで私を芝生の付近まで押し込んできたのです。あのスピードで平らな路面を走ったら私が転倒することは解っていたと思いますから、稲村選手の闘志も並大抵なことではありません。それでも私は返す刀で2コーナーで稲村選手を競り飛ばして神山選手に食い下がり4コーナーを迎えました。私は必死でゴールを目指しました。あの神山選手の雄叫びに絶対応えなければ!とハンドルを投げました。すると9番車の松本整選手の姿が私の真横に見えました!「ウソだろ?」と一瞬焦りましたが、優勝に手が届いたのです。そして自身2度目のG2タイトルを神山雄一郎選手のお陰で勝ち取る事ができました。今でもその当時のゴール写真を見ると最後の直線、力尽きながらも神山さんが心配そうに「どうかな?後閑勝ったかな?」と思える顔が今でも忘れられません。
 そしてレース後、稲村選手からラフプレーをしてしまったことについて謝罪もありました。しかし、勝負の世界ですからボクシングと一緒で殴り合っても最後は抱き合ってお互いを讃え合う!私も稲村選手へ「ありがとう」「でも転ぶかと思ったぜ!」などと話は進み、またお互い頑張りましょう。と競輪場を後にしたのを覚えています。ダービー王・稲村成浩!(スーパールーキー)という言葉は彼のデビューがきっかけで出来たんです!そんな最強な後輩に恵まれたからこそ、私が存在していた事も間違いありません。私は「切磋琢磨」という言葉を聞くと今でも彼を思い出します。競輪選手はこのように毎レース判断力と決断力が求められているのです。

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