不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第121回 成績不振の時は大切な物を手放す  2021年3月8日

 この年は怪我で体は満身創痍でしたが、開き直る事によって得た自分の心理的限界や体の限界幅を把握し経験出来た貴重な時期になりました。私は我慢をして乗り越えた先に大きな自信に繋がるものがある。それを掴んだ私は続く高松宮記念杯でも決勝戦に乗ることができました。この年に得た事は呼吸法や乗車フォームで痛みが治まり、それによって体に無駄な力が抜けて自然に体重がペダルに乗り、返りも鋭くなり回転力が上がる事も勉強になりました。
 そして迎えた地元前橋の寛仁親王牌、手の骨折による違和感は無くベストな状態で臨む事が出来ました。私は予選回りになりました。久々の予選で緊張したのを覚えています。地元は3割増しと言うが、逆に悪いと輪をかけて空回りしてしまう魔物が自分の中に潜んでいます。初日は6着に沈みました。日々全力な私の心はかなり落ち込みましたが、(開き直り)の技を得た私は汗を拭いてシャワーを浴び終わると「ヨシ!」明日から全部1着で、、!と高知オールスター4,1,1,1を思いだし、そのモードに気持ちは切り替わっていました。結果、その大会も6,1,1,2で締めくくる事ができて終われた事を覚えています。
 「今年の前半戦は乗り越えたな~」そういえば怪我を乗り越える事に集中しすぎて、息抜きを全くしてきていない事にも気づきました。という事は家族も同じことです。そこで私も一休み、夏でしたので何日も掛けて家族旅行に行きました。妻と娘の笑顔が「頑張ってよかった~」と思わせてくれました。話は変わりますが(身の丈に合った)という言葉を私は大事にしていて、デビューしてから成績、収入の増減でよく大好きな車を売ったり買ったりしていました。成績が悪いのにいい車は私は正直、恥ずかしくて乗ってられないという自分に対しての問いかけと、戒めも込めた決め事のようなものを自分なりに持つ様になりました。自分が悪い!ふさわしくない!と思うとすぐ売却していました。
 私はこのプロスポさろんに以前にも書きましたが、若かりし頃に(追走義務違反)をして6ヶ月の斡旋停止を経験した時には仕事がないのにベンツやセルシオなど車4台所有、そして斡旋停止前に注文したホンダNSXの納車という事態になり、億を超える自宅のローン!それでも見栄で一向に売らずに乗り回し日サロ通い。家計が厳しい事にも無神経だった私は、娘の百合亜が毎日飲んでいたヤクルトまでも安いメーカーに妻が替えるなどしていた事を知って、自分の恥ずかしさを知り、そこから私は「今後、絶対に家族の生活レベルだけは落とさずに惨めな思いはさせない!その為なら骨が折れようが這ってでも俺は戦う!」と心に誓ったので、私は成績が不振になった時はスパッと大好きな愛車を売却。自分の大切な物を手放す様にしたのです。
 時にはトヨタのbB1台の時もありました(笑)。それでも家族で遠出をしていたのですが、ベビーシートを付けると結構窮屈でした。でもそれはそれで今思えば楽しかった。なんかしくじり先生みたいですね。人はそれぞれ価値感が違いますので、私のスタンスで言うと、私は努力次第で高収入が魅力で一攫千金!を掴みしかも長く稼げる競輪選手の道を選びました。現実に20代前半から年間1億円近く毎年稼げましたから、何でも買えたしやる気も物欲も上がるばかりでした。でも調子に乗っているとギャフン!という目に遭い気づく事もありました。そしていい意味でも悪い意味でも「帳尻」という言葉を心の軸に置いて行動してきました。辛い事や苦難を乗り越えたたらその分、(運)の量が増えると思い必死に乗り越えて来ましたし、良い事があるとそれに慢心せず、気を引き締めて常にひたむきに日々を送って来ました。波瀾万丈な競輪選手生活でしたが、好きな競輪選手をしてきただけでこれだけ深い人生観と向き合える職業はあるのだろうか?と思うくらいこの仕事は若い世代にもっともっと上手く伝えて行ってもらいたいと思います。次号は私のクルマ遍歴を綴ろうと思います。

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