不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第75回 波潤万丈な競輪人生の幕開け  2019年9月13日

 21歳で娘の百合亜が生まれ成績は更にうなぎ登り、その年の新人王戦も香川県の児玉広志選手に優勝をさらわれ決勝3着と悔しい思いもしましたが、つぎのG2ふるさとダービー別府では3着、4着、3着、決勝8着とGグレードレースでもやれる兆しがみえて来ました。しかし、そんな目先の成績は通過点でしかない!私の目標はG1のタイトル!そして同期生の中でも吉岡稔真選手、山本真矢選手、海田和裕選手には絶対に負けたくない!ただその思いが自然と私を高めて行ってくれました。
 練習もしっかりと距離を乗り、車誘導で直線をスピード練習。街道もバイク誘導で【スピード地脚】を付けて、ローラーも考えてずっと乗り続けました。21歳当時は自宅が2億円!ローンは月々家だけで100万円。車も入れたらざっと合わせて月々120万円オーバー也!それでもまだまだ私は何か物足りない感じがしているくらい欲望で満ち溢れてギラギラしていました。バブルの恩恵を受けて賞金も世の中も余裕を感じた時代でした。
 そしてレースもその勢いをキープのまま1993年22歳で迎えた立川・日本選手権ダービー。私は一次予選からのスタートでした。一次予選は逃げて1着での通過!二次予選は勝ち上がりが2着までの狭き門!この時は緊張しましたね。揉まれながらも何とか2着に突っ込んだのを思い出します。敢闘門に引き上げてきた私に群馬の先輩の高橋光宏選手や矢端誠二選手が自分の事の様に喜んでくれて「なんていい方々なんだ!」と勝負師の世界の中にも人情味がある事に感動をし、私は義理人情の素晴らしさを改めて学んで行きました。
 準決勝は後に兄貴と慕う栃木県・神山雄一郎選手と同乗しました。神山選手の2番手はレジェンド埼玉県・伊藤公人選手がマークをしました。私は先頭で引っ張りたいと思いましたが当時、神山選手はバリバリのスーパースターで、異次元のスピード、そして2番手には並んだら誰でも必ず競り落とす職人名マーカーの伊藤公人選手と3人での話合いで、今回私は3番手を固める事になりました。デビューしてからずっと先頭を走ってきた私にとっては、レベルの違いを感じた迫力の瞬間でした。役に立たない自分を悔み、いつか役に立ちたい!と思う気持ちが先々の私を更に強くしてくれました。その時のレースでは自分なりに3番手の仕事をしっかりしようと頑張りました。打鐘過ぎに押さえて最終HSから先行する神山選手。絶対誰も通過させない!と何度も後ろを振り返りました。4番手に入った千葉県・鈴木誠選手がまくってくるのを察知して2コーナー出口で車を外へ振り、まくりの出鼻を挫きました。自分でもヨシ!もう誰も来ない!と思い、4コーナーから外へ進路を取り思い切り踏みに行きました。すると直線の長い立川バンクだけにグイと伸びてまさかのダービー準決勝で1着通過、、。何が何だかわかりませんでした。
 そしていよいよ!ダービー決勝戦!メンバーは1番車三重県・海田和裕選手。2番車大分県・大竹慎吾選手。3番車埼玉県・伊藤公人選手。4番車神奈川県・遠沢健二選手。5番車岡山県・小橋正義選手。6番車熊本県・森内章之選手。7番車・北海道・俵信之選手。8番車群馬県・後閑信一。9番車福井県・野原哲也選手と貫禄と迫力のある選手ばかり。私はとにかく同期の海田和裕選手が強すぎて、後位は小橋正義選手や大竹慎吾選手が狙って行きそうな気配を感じていました。併走になり、もつれそうなメンバー構成でしたので、伊藤公人先輩と「緩んだらカマす、そこ一本で勝負しよう!」ということになり、私は最終HSから予想通りの展開をまくり上げました!すると番手に競り込んだ小橋正義選手が落車をして私は一瞬怯んでしまいました。その当時、私は踏み脚一本に頼る踏み方でしたので、みるみるうちに後退して行きました。でも最後まで頑張ってゴール!と思いきや気づいたら落車に乗り上げて空を見上げていました。落車滑入5着で私の22歳のダービーは終わりました!その時の優勝は同期の海田和裕選手!先行逃げ切りでした!私は高校時代自転車競技でインターハイや国体、都道府県大会と勝ち、技能免除で競輪学校に入学した人間!そんな私が、自転車経験のない同期、吉岡稔真選手には21歳で前橋ダービー優勝で抜かれ、高校時代スプリントでは一度も負けた事のない海田和裕選手にも22歳で立川ダービー優勝で抜かれたあの時の経験はショックではあったけれど、早いうちに現実を突きつけられて浮かれずに済んだように思えます。しかし、私の波潤万丈な競輪人生はまだまだこれからが本番だったのです!

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