不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第76回 挑みまくった22歳  2019年9月20日

 日本選手権立川ダービーは同期の海田和裕選手が逃げ切りの優勝!対する私は落滑入の5着と悔しい消化不良の甘酸っぱい初のダービーとなりました。賞金はダービーの優勝戦まで勝ち進むと、軽く1千万円は超えていました。雨で落車の怪我もほぼ無傷でしたので、気持ちは次回の高松宮記念杯競輪に向いていました。その当時の競輪界は、日本の四季に合わせるかの様なG1特別競輪の日程でした。真冬のケイリングランプリが終わると、ダービートライアルが始まり、春に向けてまずは3月の日本選手権ダービー・6月の高松宮記念杯(梅雨時の開催から「雨の宮杯」とも言われていました)。そして8月には真夏の祭典・全日本選抜競輪。残暑の9月にはオールスター競輪。秋には11月・競輪祭。という様な四季を感じる味のある日程でした。それは記念競輪でも全く同じ事が言えていました。その季節感と開催場の日程が崩れ始めてから、自然にあった生態系が崩れた様にこんがらがってしまったのではないか?と私は残念に思います。
 そんな季節感のある中で私はまだ22歳という若さで挑んで挑んで挑みまくりました。正直、怖いものなどありませんでした!気になるのは同期の活躍だけでしたが、私には良い刺激でした。準記念(Fl)ではあまり負けることはありませんでしたが、記念競輪になると、当時のS級1班(上位120人)の実力のある競輪界のトップ選手が参加するので、オーラのある上位選手の活躍に押されながらも挑み続けました。やはり先行力が足りないのは実感していました。記念競輪はテレビで見ている超一流選手もいますから緊張感もありますし、勉強にもなります。私は当時群馬県の選手でしたから、勝ち上がれば当然、関東マーク屋の先輩方と一緒のレースになります。東京の山口健治選手や尾崎雅彦選手、恩田繁雄選手、阿部文雄選手。埼玉県の伊藤公人選手や諸田勝仁選手、森田進選手。茨城県の戸辺英雄選手、坂巻正己選手。そして同県の群馬県では高橋光宏選手や高林秀樹選手、矢端誠二選手。緊張感と雰囲気でかなりのプレッシャーと責任感と重みはありましたが、私の場合はそんな時は「後ろに信頼してマークしてくれた選手が勝てばいい」くらいの思いで走れたのが、委縮せずに力を出しきれるようになって来た理由でもありました。多分私は、自分よりも任せてもらった方に喜んで貰えた方がやり甲斐を感じて嬉しいタイプなんだと思います。犠牲心というか、ラガーマンの様な精神に似ているのかもしれない。競輪もメンバー構成によってはONE for all ,AII for ONE。正にその精神でした。それが「男気」と言われ、メンバー的にもオッズ的にもラインを引き出す流れであれば先頭で引っ張る様になり、その行為が「安全に脚力が付いて恩が売れる」事も学び、人の心の動かし方や人間模様を感じる様になって来ました。その仕組みを知ってしまえば、地元戦や勝ちたい時には周りが自然にお膳立てをしてくれる。先輩方のレースを見て学びました。私はまだ22歳。しばらくは先頭で下積みをしっかりとして行こうと思っていました。そして6月の高松宮記念杯は毎年、滋賀県の大津びわこ競輪場500バンクです。熊本競輪場と比較すると全体的に丸いバンクで、最終4コーナーからは中バンク辺りがVコース!私の初めての宮杯は3着6着3着6着とまずまずだった思い出があります。
 当時のG1特別競輪は全て6日制の開催でした。不出走の日もあります。休みの日は先輩の自転車を取りに行ったりしていましたが時間は余る!今と違ってDVDもありません。あるのはウォークマン!しかも当時はカセットテープ式のものが主流でした。お金持ちの選手はオートリバースなんて機能が付いてA面とB面が自動で切り替わる優れもの!それでも暇な時間が多かったですね。ふと駐車場を見ていると、、先輩達の笑い声!見ると名物「手作り輪投げ」で皆さん楽しんでいました。体の大きい超有名選手による輪投げ大会はとても面白かった思い出があります。私の記憶では怪物と言われていた〝滝澤正光選手〟がめちゃめちゃ上手かった事は今でも忘れていません!そしてレースではあの豪快な勝ちっぷり!本当に憧れていました。

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