不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第81回 宮杯で稲村成浩選手と表彰台へ  2019年11月21日

 人生良い時もあれば、悪い時もある、、。苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、、。約半年間の斡旋停止と辛い【痔瘻】を乗り越えて、健康で普通に生活を送れる有り難さと、自転車に乗れる感謝を噛み締めながら毎日練習に明け暮れていました。私は何故か苦境に立たされると、凄くポジティブな考え方になります。「人生は帳尻!」と思っていたので、この苦難を乗り越えればきっと乗り越えた分だけ良い事が起きる!と信じて疑いませんでした。そんな事を思っているくらいですから、練習量は増えるばかりでした。
 半年ぶりの復帰戦で感じた事は、、。何を用意したらよいのか?先輩に連絡や切符の手配、レースに行っても何時間前にウォーミングアップをするのか?レースも今の様に映像を常には見られなかったので、全てがデビュー当時の様に全く分からなくなってしまっていたのです。とりあえずレースは脚を付けるためにも赤板から抑えて打鐘は全開で通過するレースを繰り返しました。すると良い意味での帳尻傾向が訪れたのです。
 23歳で迎えた高松宮記念杯競輪、当時は大津琵琶湖競輪場での開催でした。毎年6月の梅雨の開催でしたので「雨の宮杯!」と言われていました。私はデビュー3年目の新人でしたが、当時私が籍を置いていた群馬県は69回生がデビューした頃でした。群馬県からは当時スーパールーキーと言われた稲村成浩選手がA級に上がるなりいきなり3場所でS級特進を決めて大活躍!何十年に一人の逸材と言われていました。すると、いきなりその勢いで一宮記念を優勝してしまったのです!私はまるで同期の吉岡稔真選手の再現を見ている様でした。
 その稲村選手と参加した宮杯では私は予選から勝ち上がり準決勝もクリアして、デビューして3年で初の特別競輪G1の決勝に乗れたのです!そしてスーパールーキー稲村成浩選手も順当に勝ち上がり、何と群馬県から2人の決勝進出者が出たのです!私は稲村選手の様なスピードは無かったので、決勝戦は稲村選手の後ろにつく事にしました。稲村選手は長い距離のまくりも打てるタイプでしたので、付いても安心でした。しかも琵琶湖は500バンクなので、後方で立ち遅れても十分取り返せる自信がありました。レースは稲村選手が後方からのまくり追い込み!私は4コーナーから稲村選手の外から抜ける自信がなかったので、内側のコースに突っ込みました!結果、稲村選手が2着でわたしが3着。2人で表彰台に乗った良い思い出があります。
 昔はよく打ち上げをしました。群馬県に帰ってから出場メンバーでよく夜の街に出て行ったものです!前橋の夜の街は栄えていましたから競輪人気も凄く、飲みに行く各お店から声がかかり、サインをよく書いた覚えがあります。私と稲村選手が街を歩くと後ろに人が付いて来てしまう程、2人は「時の人」状態でした。
 それからは私は稲村選手とよく練習をする様になりました。それは自分よりスピードのある選手と練習をしなければトップスピードは上がらない!と思ったからです。なので私達はG1が近づくと冬は沖縄、夏は軽井沢に行き、とにかく長距離と下りをもがき倒したのを覚えています。尋常ではないスピードと回転力!私達はその基礎体力と回転力で数々のG1を上位で戦えてきたのだと思います。

ページトップへ