不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第95回 再び神山選手と連結を外す  2020年4月6日

 そしていよいよ自身、初出場となるケイリンGP1996の前検日がやってきました!朝から武者震いというか、今までにはない緊張感があった事を覚えています。緊張を和らげるために、愛車のS600を洗車してピッカピカにして立川競輪場へ向かいました。立川競輪場は、入り待ちのファンの方でいっぱいでした。しかし、選手駐車場が競輪場内にはなく、少し離れた場所になってしまうため、車好きの選手はウオーミングアップ時に見ることができない事と、夏の暑い日、冬の寒い日に駐車場まで行くのがちょっと大変!。私の新型S600を見たファンの方から「すっげー!新型!」などと言ってもらえて冬休みのお子様連れのお父さんが「競輪選手って凄いだろー」の言葉に「夢を与える仕事なのだなー」とグランプリ参加に誇りを持って前検入り。
 そして競輪場に入った途端にもの凄い人数の記者さん達に囲まれ、共同インタビューや諸々の取材を受けて大忙しの一日でした。そして当時はS級シリーズ阿佐田哲也杯もS級とA級戦の開催でしたので、参加メンバーの年齢層も広く、宿舎で印象に残っていたのは、栃木県・吉原力也選手の誕生日会を毎年食堂でやっていたなーと懐かしく思います。前検日は28日、、。12月30日が本番といっても初日から他の選手のレース後の自転車を取りに行ったり、時間があるので体が訛らない様にローラーに乗ったり、取材を受けたりと初出場の私には結構忙しく感じました。そして公開練習でもたくさんのファンの皆様の前で十文字ー神山ー後閑ラインが並ぶと、ファンの皆さんからのもの凄い声援が地鳴りのように体の芯まで響いてきました。今思うと、競輪場に足を運んでくれたファンの皆様がグランプリの雰囲気を盛り上げてくれて、それを見た私たち選手がその期待に応えようとする相乗効果で競輪は作り上げて来れたのだなーと。本場での盛り上がりがあったからこその2兆円規模を売り上げた競輪界だったのだと思います。
 そしていよいよ本番ですが、顔見せにいくともの凄い声援。1番人気は神山ー後閑。2番人気は神山ー吉岡。3番人気は神山ー児玉。超満員の中、私の最初のケイリンGP1996は行われました。ラインは3つで単騎は2人。十文字貴信ー神山雄一郎ー後閑信一のアトランタオリンピック出場の2人に私の付く関東ライン!そして三宅伸ー小橋正義の岡山同県ライン!吉岡稔真ー松本整の即席ライン!松本整選手に中部近畿ラインで付いてもらえなかった海田和裕選手は単騎、そして一匹狼の児玉広志選手も単騎でのレースとなりました。今こうして記事を書いていると同期生の3人がケイリンGPに出場するなんて、、、その中の1人に入れて本当に光栄で嬉しい事でした。
 レースの話に戻りますが、とにかく私は寛仁親王牌の時の二の舞はしない様に十文字選手のダッシュには遅れないように集中しました。十文字選手が前を取り引いて主導権の展開になりました。赤板前BSから三宅ー小橋ラインが上昇すると場内の声援が高まりました。それを聞いて私は後方からの仕掛けを察知しました。残り2周の赤板で十文字選手が引き始めました。その時、感じたのは十文字選手が抑えて来た三宅選手ではなく、大型スクリーンを見てレースをしていたのです。十文字選手の走りには直感的に違和感を感じていたのは覚えています。それでも十文字選手は打鐘から叩いて先行態勢に入りました。三宅選手に内側をすくわれ踏み合いになり、その瞬間、単騎の児玉選手が神山選手の横に追い上げて来たのです。私は1コーナー登りで競輪祭決勝戦と同じミスをしてしまったのです。そして私は踏み遅れてしまい、神山選手の後ろには小橋選手が入る事になってしまいました。最終BSでは吉岡選手が捲り、十文字選手は内側に包まれてしまいそうになると、神山選手が番手から捲りを仕掛けました。最終2センターでは神山選手の後ろには小橋選手がつける形で最終コーナーに差しかかった瞬間に競輪史上稀に見る光景となったのです。内側に包まれた十文字選手と再度突っ込んで行った児玉選手が接触をしてしまったのです。私は2センターで強引に中を突っ込んで行った児玉選手に「危っぶねえーなー!」と思った瞬間、目の前でドミノ倒しの光景が瞬間的に起こったのです。私は無意識に自転車を外側に回避させましたが、スピードも出ているため金網が一瞬で私のすぐ横まで接近してきました。私は心中「あーぶつかるー!金網はぶつかると大けがをするんだよなー」と思いました。そしてできる限り起き上がってしまった自転車をバイクレースの「ハングオン」をするように必死に腰で体重移動をしたのを覚えています。そこで今回は「ゾーン」にやっと入ったのだと思います。ダメですね!だって金網越しのお客さんの顔見えましたから、、。
 結果、私の26歳最初のケイリングランプリは落車を避けただけで3着という成績でしたが、あの1コーナーでしっかりと神山選手の後ろにマークしていたら、神山さんが優勝していたかと思うと本当に申し訳ない想いになりました。あのグランプリから私は神山さんに少しでもレースでお返ししていこうと自力も含め脚を磨いていったのです。そして落車をした6人の選手は起き上がったのですが、グランプリで舞い上がってしまったのか、それとも立川バンクの直線が長くて勘違いしたのか、30メートルライン手前で落車したにも関わらず自転車を片手で持って走り始めてしまったのです(松本選手、海田選手、十文字選手、三宅選手)。グランプリの賞金は1着が6000万円で、3着の私が1000万円でした。4着以降は100万円ずつ下がって行く感じでしたので、皆、何としてでもゴールはしたいという想いが強かったのではないでしょうか。因みに競輪はレースを棄権すると9着の賞金の80パーセントの賞金になってしまうのです。もちろん失格は賞金0円となってしまいます。このレースでは吉岡選手が4着、児玉選手が棄権、松本選手が落車の原因と判定され失格となり、自転車を担いでゴールまで駆け足で走った三宅選手、海田選手、十文字選手は棄権扱いとなりました。そんな前代未聞のケイリングランプリ1996は幕を降ろしました。私はレースでの悔しさと自分への怒り、神山さんへの申し訳なさ、1番人気に応えられなかった心残り、、、。来年こそは!と心に誓い愛車メルセデス600で立川競輪場を後にしたのです。来年にまたこの立川GPで起こる悪夢を知る由もなく、、。

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