不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第99回 大ケガ克服し決勝進出  2020年5月4日

 せっかく掴んだ平塚オールスター競輪「ドリームレース出場」の10日前、練習中に痛恨の落車!左鎖骨と左肋骨3本の骨折に全身擦過傷という最悪の状況。でも、せっかくファンの皆様がファン投票でドリームレースに選んで頂いたという有り難い思いと、挑戦しないで諦める事がどうしても納得いかずに、若くイケイケだった私は前しか向いていませんでした。後にこの経験が私の貴重な経験と基準になっていくのです。若いときは恐れずに何でも立ち向かった方がいいと、全てに挑んでいました。今思うと、当時から私は人並み外れた負けず嫌いな精神と体力だったと思います。周りから見ると正に「奇人・変人」!しかし、私には最高な褒め言葉に聞こえました。
 オールスターの2週間前に落車をして4日後に手術をして10日間ジッと治癒に集中しました。そして当時は、前検日の前日に前夜祭もありましたから、ファンの皆様も今よりもずっと盛り上がっていたのではないかと思います。私は神山雄一郎選手と待ち合わせ、2台のベンツで連なって小田原厚木道路を走った思い出があります。確か?大磯の辺りのホテルだったと思います。前夜祭は盛大に行われステージでもトークショーやファンの皆様との交流もありました。トークショーでは正直に「実は練習中に落車をしてしまい、鎖骨と肋骨を骨折してしまいました」と皆さんに報告をしました。そこで私は言ってしまえばもう引っ込みが付かないだろうと「でも大丈夫!走ります!」と発言したのです。確かにその時、ファンの方もザワつきましたが、私も気持ちに責任感と覚悟のスイッチが入ったのです。
 前夜祭をしたホテルで一泊して次の日、前検入りでした。前検日は共同インタビューだけをして記者の方にも説明をして必要最低限のインタビュー。指定練習もせずに宿舎へ直行しました。擦過傷もまだ治っていないので、シャワーをチョイチョイと済ますだけでした。当時は今のようにラップや、薬も進化していないので「ソフラチュール」という網状の布の様な、、紙の様な、、そんな物を傷口に直接貼り付ける治療法が主でした。因みに剥がすと痛いのなんの!固まると皮膚が突っ張るので、まともにもがけませんでした。しかし、言ってしまったのでもうやるしかない!という思いでドリームレースを迎えました。
 私たち関東ラインの並びは十文字貴信選手―神山雄一郎選手―私、後閑信一・九州勢は吉岡稔真選手―井上茂徳選手の2車・山田裕仁選手には小橋正義選手がマークして滝澤正光選手と児玉広志選手はそれぞれ単騎のレースとなりました。蒼々たるメンバーです。私はウォーミングアップの時も走ると振動で肋骨が痛みましたので、ローラーのみで行いました。自転車に乗るのは落車後、2週間ぶりとなりぶっつけ本番でした。ウォーミングアップはかなり早めに終わらせました。何故ならテーピングで左腕と鎖骨をガッチリ固定するからです。十文字選手のダッシュ力に離れないようにという事と、、レース中に他の選手と当たった時に痛みで怯まない様にするためです。念のため座薬も入れてレースに挑みました。
 見た目ではいつもと変わらないように見えていましたが、鎖骨は常に「ギシギシ」していました。今でもあのときの感触はハッキリと覚えています。正直、折れないか?という気持ちはあったけど、痛みはありませんでした。それはやはりお客様の数がもの凄かったので、声援で感覚がかき消されるくらい平塚競輪場の全周は大歓声で埋め尽くされていたのです。やはり「競輪選手」はファンの声援あってのものだと言うことを実感しました。ドリームレースは前を取った関東勢を後ろから九州勢が抑えに来ました。私達、関東勢は一旦引いて打鐘で叩き返しました。すると、下がったはずの吉岡稔真選手が引き切らずに内側から神山雄一郎選手の横まで上がってきたのです。となると、私の隣は井上茂徳選手となります。私は前に遅れない様に付けて1コーナーを回りました。私はとにかくスピードは落とさない!ということを大前提に考えていました。スピードを落としてしまったら怪我した鎖骨がもちません!正に一走入魂です!その時です吉岡選手が神山さんを捌いたのです。吉岡選手は十文字選手の後ろに入る形となりました。私は吉岡選手が気ずかないうちに外からフタをしに行きましたが、時すでに遅し、、。気ずかれて前に踏まれてしまいました。結果、吉岡選手が1着。関東勢は分断されました。私は結果8着でしたが、私の感覚では「この体の状態で前に踏めたドリームレースでの感触は手応えある!」と気持ちを切らさずに二次予選に回りました。
 二次予選では十文字選手の番手を回れる番組になりました。初日の手応えと、この二次予選を乗り越えれば決勝戦まで行けると何となく感じていました。それはこれだけの手負いの状態で走っているだけでもあり得ない。当たって砕けろ!という開き直った気持ちでいると人間は何も怖い物がない!という事が分かったからです。まして鎖骨手術をして2週間弱で最高峰のレースをこうして走っているのだから、、。これは貴重な経験です。何としても十文字選手を追走してマークを外さない!たとえ鎖骨が外れても、、とそんな気迫も持っていました。すると二次予選は十文字選手を交わして1着!ワンツーを決めました。
 選手の皆からも「スゲーどんな体してるんだ!?」などの声を聞きました。それ以来、私は完全に同業者から凄い!と言われる事ことに快感を覚えてしまったのです。レースを走り終えると平塚競輪場は2コーナーに敢闘門があるため、その上りすら登れない状態でした。そして後輩に肩を借りる始末、その後は宿舎では全く動けない状態、、。それでもレースでは勝てたのです!数値や筋力だけではなく、日頃から誰よりも自転車の乗りこなしや体の使い方を研ぎ澄ましてきたことが身になっていたのだと思います。
 準決勝は再度、十文字選手と連携。高谷雅彦選手に捲られてしまいましたが、十文字選手の頑張りで3着に入る事ができました。2週間前の練習中に落車をして鎖骨と肋骨3本を骨折、鎖骨手術をしてから10日で参加した第40回オールスター競輪の決勝戦進出は、私の競輪人生の中でも特に力を振り絞って鎖骨が折れないか?外れないか?と危機感の中、ファン投票をして頂いた方への思いだけで走れた開催となりました。オールスター競輪も残すところ決勝戦だけとなりました。

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