疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第10回 上り調子で  2016年2月24日

 新人リーグが終わり、1期目はA級2班、2期目は3班という格付けになった。
 A級時代は、今皆さんの脳裏に残ってる私のイメージとは違ってるとは思いますが、先行基本の選手でした。その頃の私はというと、初心を忘れかけて練習で一日が終わるという日々じゃなく、雨が降れば必ず先輩がいるパチンコ店へ、誘えば必ず人数が揃ってしまうマージャン、練習もやる時はかなりハードにやってたんですが、遊びのほうもハードになってましたね。そんな真剣なのかどうなのかわからないような練習の取り組み方だったのに成績は良かった。先行基本のレースが練習になってたんでしょうね。当時はA級でも賞金がよく、20歳そこそこの若僧が大金もらってりゃロクな生活しないわな(笑)どちらかというと貧乏家庭に育ったからお金の使い方知らなかったんですね。夜の飲み代もけっこう使いましたねぇ。あの時のアルコールをプロテインに変えて飲んでいればもっと強い選手になれてたかも(笑)
 そんな楽しみのある生活をしながらでも徐々に徐々に成績は上がっていきました。
 2班の時には1班の点数を取り、3班の時には、S級への特進をかけるまでになっていて3班ながら特選に乗せてもらってました。そんな浮かれてる私がいつまでもいいことが続くはずもなく、9連勝目で写真判定の末2着で特進失敗という罰が当たりました。その次の場所も初日に負けて2・1・1。次の場所からなんとか9連勝で特進に成功しました。
しかし、S級に上がるとやはりスピードが違う。自信のあった先行をしても4コーナーからの追い込んでくるスピードが違う。ここにきてやっとプロの凄さに気付かされた。やはり一流は違った。競輪学校時代の弱かった頃の自分に戻ったように勝てる気がしなかった。
 S級にいればそんなに勝てなくてもそれなりに稼げる。だけど、稼ぎじゃないんですね。負けたくないんです。勝負に勝ちたいんです。昔は勝てなかったはずの自分が、勝てないことがつまらないと思える自分になってた。練習しよう!やっぱり練習しかないわ。
 しばらくサボってた車誘導も今度はこちらから親父にお願いしてやってもらうことにした。
 練習ってやればすぐに結果が出るなら皆んな続けることが出来る。やってもやってもなかなか結果に繋がらないから辛い練習は嫌になるんですよね。だけど負けず嫌いは勝負に負けたくないんです。負けたくないなら練習することしか手段がみつからなかった。

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