疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第19回 おそるべし業界②  2016年4月22日

 人生喜怒哀楽は付き物で、皆さんも生きてればいろいろな体験はしてると思います。私も40年以上も生きてれば、そりゃ楽しいことや辛いこと、苦しいこと等いろいろ経験してきました。ほんの些細なことでも怒ってしまって後から後悔することも多いですよね。しかし、私にはいまだに怒り続けて許し難いことをこの業界で経験してるんです。それは、結婚して間も無い頃です。奥様は妊娠してて、私は仕事に参加してた時のこと、レース終了後選手管理から呼び出し「岐阜の山田選手管理まで」。あちゃー何かやってしまったなぁ。選手はレース中に失格になったり、事故点の付くような危険な走りをするとレース後選手管理に呼び出されて注意を受けるんです。しかし、そんな危険なレースじゃなかったはずだけどなぁ・・・
 管理に行くと、「椅子に座ってください。奥様妊娠してましたよね?実は、この開催中に流産しまして、ウチも山田選手は優勝候補で呼んでるので帰すわけにはいかなかったのでレース終了後に伝えました」。はぁ・・・(怒) 間違いなく今の自分なら暴れて暴力事件でしたね。その頃の私は若かったのか無言で帰宅。
 奥様は、遠く埼玉から岐阜まで嫁に来てくれて、頼る両親もそばにいなけりゃ、友達もいない。田舎から都会に出たならまだ明るいかもしれないが、都会からカエルの鳴き声を聞きながら寝ることが出来る大垣に来たんです。一人でどれだけ淋しかっただろう(涙)皆さん他人事だと思わず想像出来ますか?
 その帰り道は、遠かったのか近かったのか、頭の中でいろいろな事を考え、速かったのか遅く感じたのか何が何だかわからない状態で自宅に戻ったのを覚えています。どんな顔して会えばいいんだろう。まずは何って声かければいいんだろう。ホント自分でもどうやって帰ってきたのかわからない放心状態でしたね。
 その後のそこの開催は参加依頼が来ても小さな抵抗で参加しなかったのは言うまでもありません。売り上げの為というなら開催後お礼の一品でも貰っても罰は当たらないですよね?開催後、誰からでもいいからお見舞いの一言でもあってもいいよね?人の命を何だと思ってるんですかね。生まれてなきゃ死んだとは言わないのですかね?当時の競技会や施行者は頭の一つも下げれないのか?
 選手は博打のコマじゃなく人間です。人としてどうかと思いますが今からでも遅くない、詫びの一つでも入れるべきではないだろうか??

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