疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第22回 犠牲者  2016年5月12日

 好成績を収めるためにハードな練習をして『辛い思い』をしてるのは本人だけでは無いんですね。
 私は、上り調子の時に結婚したので奥様はそりゃ大変でしたよ。他人は、稼いでくるから良いじゃないと思ってる人が多いのですが、結婚式を挙げても直ぐに共同通信社杯参加で、未だに新婚旅行も行けてません。朝起きて練習、帰ってきて昼寝、そして起きて練習、帰ってきて入浴して寝る。毎日こんな感じの生活に、たまの休養日だと思ったら趣味の競馬に出かけてしまう。毎日食事を作ってるだけならお手伝いさんでもいいんじゃないかという扱いですよね。奥様は22才で結婚してるから独身時代の楽しみがほとんど味わうことが出来てないですね。『私の青春返せ』って感じですよね。(苦笑)ゴメン。
 長男は、小学生時代に水泳を習っていてジュニアオリンピックを目指していた。しかし、練習しても練習しても言われることは、「あのお父さんの子供じゃそりゃ運動出来るわな」だったらしい。中学受験をして、家から通える学校も受かってるのに長野の全寮制の学校に行くことにした。それは、親の側にいては、自分の努力が全く認めてもらえないのが嫌だったからということをこの歳になって教えてくれた。
 長女は、名古屋の栄を拠点に活動しているSKE48というグループの二期生に合格した。しかしここでも「親の力で合格したんだ」と言われてしまう。私にそんな力あるわけないやん(笑)しかも私は、オーディション受けに行くことすら知らなかったのに…
 三女は、南山小学校という中部地区では有名私立学校に合格して通ってました。一般的にお受験といえば、子供は塾に通い、親も面接指導やお受験勉強して行くらしいのですが、全く無し。受験あるから受けてみるか?みたいな軽いノリだったような気がします。今では子供達とよく笑い話しにしてますが、母親は、試験後に仕事があるから面接は着物で出かけた。『派手じゃない服装で』と習うそうです。受験する本人は、突然朝親から「試験を受けに行く」と言われて連れて行かれ、何の心の準備も無く何が何だかわからなかったらしい。そんなことだから面接では、本人への質問に対して、ほとんど無口。こりゃ落ちたと思ってたのは私だけではなかったはずだ。こんな感じだから、「いったいイクラ積んだら受かるの」と言われる始末で。
 有名税って本人だけの問題じゃなくかなりの犠牲者が出るんですね。

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