疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第23回 引退決意  2016年5月23日

 誰もがいつかは訪れる引退の時。私が決意したのは、大垣記念の斡旋が無く大垣不参加が確定した瞬間だった。
 地元記念とは、S級選手にとって特別競輪に匹敵するほど気合いの入る開催です。年に一度しかないため相当集中して練習もしてくるから、昔から『地元何割増し』という言葉が使われてるのもわかるような気がする。何十年もの間、地元の看板背負って戦ってきたというプライドを傷つけられた瞬間でもあった。
 大垣の選手は、全国でも珍しい方だと思いますが、年末年始は懇親会として必ず議員さんと施行者さんを交えて食事をしてます。デビューしてから毎年のようにそうしたお付き合いをさせてもらってるから全国で唯一の練習用のナイター設備を付けてもらえるようにお願いが出来たと思ってます。そのおかげで真夏でも遅くまで練習出来るし、大垣で練習する選手だけでもかなりの数のタイトルを獲れてきたんだと思ってます。
 そんな施行者との繋がりに加え、私は、仲人は大垣市長、競輪選手でありながら世界選手権の成績を評価されて大垣市民栄誉賞(大垣ではスイトピア賞という)も頂いた。これだけの地元密着型で頑張ってる地区なのに斡旋出してもらえなかった。
 どれだけ私が嫌われていたとしてもそこだけは触れてはいけないことだと思いました。選手側には何の力も無いので今でいうパワハラを受けたと思い込み、お客様の大事なお金をかけてもらうのに、家族を犠牲にし、命をかけてまで戦う気力がなくなってしまったのに失礼になる。辞める時が来たな。どのタイミングかなぁ、と考えてる時に、山幸(山口幸二)から「話しがあるから食事行こう」と言われた。ん、何だか嫌な予感…
次の競輪祭で引退するという話しでした。もちろん心の中で、おいおい、このタイミングでかーと思いましたよ。んー、こんな大垣競輪の存続問題がチラホラ聞こえる時に二人揃って辞めるってキツイかもなぁ。。
 私は、気持ちが切れただけで走れないわけではなかったから、自分の心に『売り上げに貢献できる魅力ある商品では無くなったから地元記念も呼ばれなくなったんだ』と鼓舞して次のタイミングを探すことにしました。
 そして翌年、大垣記念をラストにしようと思ってたのですが、競輪祭の連続出場の表彰があるということで競輪祭は走ろう。小倉がラストでは、地元から応援に来てくれる人に申し訳ないから近場の名古屋、そう日本選手権を最後に引退することになりました。

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