疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第3回 出会い②  2016年1月5日

 大垣商業高校、そこでは知らぬ間に自分の得意技、コンディショニング、ピーキングを教え込まれていた。私が3度もグランプリを優勝することが出来たのは、体調をピークに持っていく調整方法をこの時に教え込まれたおかげだと思います。だから今では恩師と言わざるをえない先生なんです。本当は出会った人全てが恩師なんですがね(笑)だが、この出会いが無ければ自分の競輪成績においてとても大きな違いが出てたのは確かだ。
 ノラリクラリの高校生活というか、よくある部活に一生懸命な普通の高校生活を送り、今の性格のまま高校生に戻れたらどんなに楽しい高校生活だったかと悔やむ所はありますが(笑)他の生徒が就活してる頃には目指してた競輪学校を予定通り適性試験で受験した。当時難しいと言われてた適性試験も、高校時代8種競技で全国大会行ってた私にとって、100メートル走と立ち幅跳びと1500じゃ、これまた一次試験で落ちるなんて考えてもいなかった。
 当然のように一次試験も受かり、二次試験で競輪学校へ。そこでビックリ、高校時代8種競技で全国優勝した森下太志がいるではないか(汗)何を動揺したのか私は「どうした?」と言ってしまった。競輪学校に来てるのだから選手になりたくて来てるに決まってるのに。それはまるで、札幌行きの飛行機内で「どこへ行くんですか?」と聞いてるみたいに恥ずかしいことでした(笑)
 8種競技で全国優勝するような森下、当然のように合格してました。そして私もなんとか合格出来てて61期の同期として陸上を離れて自転車でもライバルとして闘うことになりました。
 適性合格者は技能試験合格者(自転車のタイム測定)より一カ月ぐらい早く入学して、少しでも技能組に追いつくようにホントにキビシイキビシイ練習が始まります。競輪学校生活終わってみれば、規則正しい団体生活に慣れてないからか、それとも競技用の自転車にそんなに慣れてなかったからなのか、適性練習期間が一番辛かったと思います。しかし、選手になることを目標として生きてきた私が、ハードな練習が嫌で逃げ出すわけにもいかず、毎日毎日、汗なのか涙なのかわからない水を流しながら、自転車のペダルを漕ぎ続ける毎日が続きました。学校生活にも慣れ始めた頃技能組が入学、そこで自転車界のスーパースター神山雄一郎と出会うことになる。
 競輪学校時代の私はというと、あれだけ運動には自信があると自信過剰で生きてきたのに、まったくの劣等生(涙)こりゃヤバイとすぐに気づかされることになりました。

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