疾風怒濤の競輪回顧録

疾風怒濤の競輪回顧録

山田 裕仁 山田 裕仁 やまだ ゆうじ 競輪評論家  昭和63年5月に61期生としてデビュー。平成9年KEIRINグランプリを皮切りに、GP、GⅠを優勝すること9回と、同期の神山雄一郎、吉岡稔真とともに一時代を築いた。14年3月のダービーで現役引退を表明。同年5月の引退後はスポーツニッポン紙で競輪評論家として活動している。

第4回 試練始まる  2016年1月8日

 練習が始まると技能組との差は、ハッキリしていた。そして、適性組の中でも森下や川越は、もう何年も自転車に乗ってるのかと思うぐらい強かった。他に適性組の中では、三住は教官から期待されるほどの素質があったなぁ。劣等生の私は、卒業してから即クビにならないように、いやいや、クビどころか卒業出来ないんじゃないかと思い、毎日毎日朝練までして頑張りました。いまだに同部屋の人達と昔話しをしながら酒を飲むと出てくるのは私への文句。当時、朝練に行くために毎朝ラジカセ(当時はラジカセ、懐かしいなぁ)を目覚まし代わりにセットしてたからだ。必ず同部屋のみんなを一度は起こして出かけてた迷惑な人間だった(笑)
 話は前後しますが、私には頑張ろうと思える理由が増えたから、練習することが苦にならなかった。それは、高校時代に付き合ってた、世間で言う彼女がいました。競輪学校に合格した私に突きつけられたのは、「競輪選手になるのであればウチの娘と別れて欲しい」という親の言葉だった。当時の競輪選手といえば、ベンツに金のネックレスが定番みたいな確かに世間的にもけっして評判が良い職業ではなかったと思います。今の競輪界は、中野さんのおかげもあり(ゴマすりました笑)世間に認知されてきて、ましてやオリンピック種目にもなりスポーツ感が増してきて、賞金的なことを除き羨ましい業界になってきたと思います。彼女と別れる辛さより、自分が選手になるために生きてきた人生を全否定されたみたいでそりゃあショックでしたよ。彼女には悪いことをしたと思いますが、選手になるために生きてきたんだから当然「選手への道を選びます」。親と私の間に挟まれ辛い思いはさせられないと思い別れるしかなかった。そんなことがあれば当然頑張るしかない自分が出来上がりました。強くなって絶対あの親を後悔させてやる。見てろよ!!
 今から数年前に陸上部のOB会があり、当然既婚者となったその彼女と再会することがあった。「元気?」「久しぶり~」「実家に帰り親さんにあうことあるの?」「何か言ってない?」その返事は、な、なんと、「なにも言ってないヨォ」、ガタガタガタ~、椅子から転げ落ちた。おいコラ、これでもグランプリ3回も優勝したんだぞ。絶対悔しがらせてみせると心の中にしまって頑張ってきた俺はなんだったんだー(大涙)と心の中でつぶやいたのは言うまでもない。
 こんな仕打ちを受けてきた私だから他人以上に頑張れるのは当たり前のことでした。
 よ~し強くなるぞー!
 競輪界もみんなが憧れる業界にするぞ!!
 練習が苦にならない自分が完成された。

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