不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第128回 辛い日々が嘘の様に思えた  2021年9月16日

 栄光と挫折・光と影。たくさんの光を浴びた裏側は影が濃くなる。人生は五分!油断は禁物!これが私が経験し感じ取ったの人生観です。人生は平等なんて無いのは分かっているので人は人、自分のスタンスや設定ラインを作り、それに向けてやる気を見いだして気持ちを奮い立たせながら楽しんで乗り越えて来ました!私にとっての低迷期2003年~約1年半はようやく長いトンネルを抜けた兆しが出ていたように感じます。勿論、当時の自分はそのバイオリズムが現在どこの位置にあるのか?上に向いているのか?まだこのまま下降するのか?期待と不安な毎日を過ごしていました。しかも生活は俺だけではない。妻と2人の娘がいましたから本当に危機感しかありませんでした。しかし、私は今になって分かった事は、ある程度な危機感を持って何事も取り組まなければ栄光にはベクトルが向いてくれないのではないか?と私自身は感じています。「最悪を想定しながら最高なパフォーマンスで今のベストを尽くす!」私はこの想いで自分を常に奮い立たせ挑んで来ました。
 その思いが花を開いたのが2005年1月の事でした!競輪発祥の地、小倉競輪場でG1競輪祭が行われました。その当時の小倉競輪場は屋外から(現在公園)となりのメディアドームとしてグリーンドーム前橋に続く国内2つ目の屋内ドームでの競輪場となりました。以前の小倉競輪祭のイメージは冬の11月後半に行われ、時には雪も降る寒い中、走った事もありました。レース中ハンドルにみぞれが積もり、手がかじかみながら走った思い出もあります。そして何と言っても小倉競輪場は私がデビューして新人リーグ、現在の(ルーキーシリーズ)初戦で初優勝をした思い出のバンク!取り壊されメディアドームとして生まれ変わった時は当時、私の地元であった群馬県前橋から(現在の駐車場)となりのグリーンドーム前橋へと生まれ変わった様に、私の当時の思いは寂しいような楽しみなような、、、。という気持でした。しかし、天候に左右されないという面では年齢を重ねると味方になってくれたようにも感じます。話は戻りますが、メディアドームでの第46回・競輪祭、その時はある日突然訪れました。初日は特選5着。2次予選回りで更に危機感が迫りましが、何とか1着でゴール!準決勝に進出しました。そして準決勝、神山雄一郎選手と同乗、鋭いHSからのまくりでワンツーで共に決勝進出!
 共同インタビューやたくさんの記者の皆さんに囲まれてました。「そうそうこんな感じだったな~」と勝っていた頃の雰囲気を味わい、中々結果が出せずにいた辛い日々が嘘の様に思えました。そして決勝メンバーが出揃いました。1番車・加藤慎平選手。2番車・後閑信一。3番車・内林久徳選手。4番車・山口幸二選手。5番車・佐藤慎太郎選手。6番車・川口満宏選手。7番車・山田裕仁選手。8番車・望月永悟選手。9番車・神山雄一郎選手という豪華なメンバーとなりました。実は決勝メンバーが決まった時に私は神山選手の所へ行き「自分に前を走らせて下さい!頑張りますから!」と日頃の受けた恩や今、私がここにいられることも神山選手の後ろでマークさせて頂けているこそ!というお陰様だという感謝の思いしかありませんので私は当然、神山選手と川口選手の前で先行して関東ラインを引き出してお互いに良い結果になればそれでいい!と思っていました。すると少し時間をおいて私が宿舎へ戻る身支度をしていると、ジッと何かを考えていた神山選手が私の所へやってきて「ダンナ!(神山さんが私にいう呼び方)やっぱり俺が前で頑張るよ!お前も頑張れ!」と言ってきたのです。私は何を言っているのか分かりませんでした。しかし、私は言われるままに「はい!よろしくお願いします。」と言うことになり、私は川口選手に神山選手の後ろをマークさせて頂きます。とご挨拶に行きました。すると川口選手も「後閑にはいつも前で頑張って走って貰ってもらっているから俺は3番手でいい!」と言って頂いて第46回競輪祭決勝戦の関東勢の神山―後閑―川口の並びができたのです。次回は第46回競輪祭のレースを振り返りたいと思います。

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