不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第79回 長い斡旋停止中に痔痩を患う  2019年11月7日

 魔の斡旋停止が始まりました。約半年は先が全く見えない状況でした。レースの最中に勝負に徹するあまり気づかなかったとはいえ、私達プロ競輪選手は自転車競技法の中でレースを進めていかなければなりませんし、たとえルールが増えようと、負け方にもルールがあり、その中で走らなければなりません。私はしっかりと反省して罰則を噛み締め二度としないと,心に誓い、欠場の日々を過ごしました。
 毎日練習はしっかりとしていたのですがある日、赤城山を登っていたら何かお尻の辺りから痛みが走る様になったのです。しかもアスファルトの割れ目や段差、悪路になると、頭の中まで痛みがビシッ!と走るのです。そしてその頃から微熱が2週間程続いたので、不安になった私は近くの病院に行きました。熱は37.0度が継続するも、何も異常がありませんと言われ、痛み止めと解熱剤をもらい、それを飲みながら変わらず練習をしていました。そして更に悪夢の時は訪れました!当時は赤城山の南面から赤城神社まで登るコースでしたが、赤城神社に到着する直前で全身から痛みが走り、自転車を降りざるをえなかったのです。しかもお尻の奥から激痛が走ってるではあーりませんか!初めて体験するこの世の痛みとは思えない程の激痛にうづくまりながら1時間以上、路上に倒れこんでいました。これは痛い!空を見上げながら一人で耐えていると、少しずつ痛みが取れて行きました。ゆっくりと赤城山を下ってきたのを思い出します。
 帰宅して近くの肛門科に行き診察したところ、痔痩(じろう)デス!と診断を受けました。痔痩とは肛門奥の腺に菌が入り込み、膿の袋を作ってしまう病気で、よく下痢をする人に多いらしいと聞かされました。最初に行った肛門科は運が悪く老人の先生でした。「直ぐに手術が必要だ!」と言い出し、私を手術室に連れて行きました。私は痔瘻がどの程度の病気なのかも把握出来ないまま、手術室にうつ伏せにされて手術が行われました。確か麻酔はしなかった様な、、気がします。メスを持つ老先生の手は明らかに震えていて、ドリフターズの世界でした。メスを入れて行くにつれて「あれっ?まだ膿の部屋にメスが届かない!」、「これは深いなあ~」と不安になる言葉しか聞こえて来ませんでした。結局、手術は失敗に終わり、もしこれが欠場期間でなかったらどうしてくれるんだ!と、後から考えると恐ろしい出来事でした。
 その後、直ぐに病院を調べてレーザーメスを使った最新の手術をする病院を見つけました。な~に~?レーザーメス!?前の病院はいったい何だったのか?物事は良く調べなければならないということを学びました。最新の手術を受けましたが、痔痩は切って縫えば終わりというものではなくて、切った所を放置して肉の上がってくるのを待たなければならないのです。
 その毎日は激痛との戦いでした。唯一癒されたのは娘の百合亜が妻と遊びに来てくれた事や、後輩の須藤直道選手や斉藤薫選手、角田直樹選手たちのお見舞いです。とくに斉藤薫選手は家が病院から近かった事もあり、毎日お土産を持って来てくれました。ピザや焼きまんじゅう、何でも買ってきてくれました。食欲はあるので動かずにひたすら食べる!気付いたら体重が87キロから99キロになった時は驚きました。食べれば生理現象は当然あり、う○こはしたくなります!このう○こがまた面倒臭いのです。毎回もよおし始めるころにバスタブにお湯を溜めます。トイレに座る前に湯船に下半身だけ浸かり、肛門まわりの括約筋を緩めるのです。う○こは痔痩の手術をした傷跡をかすめて通りますから、出血と共にハンパない激痛が襲って来るのです。食べる快楽と、う○こする激痛!これまさに天国と地獄!
 私は詳しく書いてしまいましたが、この先の競輪人生で何度も重なるケガを乗り越えて来れたのも、この【痔痩】の痛みがあまりにも辛くて、骨折をしても「あの痔痩に比べれば屁でもない!」と思っていたからなのです。しかし、長い斡旋停止中にこの病気になった事は、不幸中の幸いだったのかもしれません!

ページトップへ