不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第93回 課題残った競輪祭決勝  2020年3月22日

 全日本選抜競輪の悔しさと課題を胸に翌月の小倉競輪祭はのぞみました。この競輪祭で決勝戦に乗ればグランプリが確定します。その当時、私は前検日から少し硬くなっていた様に感じます。当時はまだメディアドームではなく、隣りの公園に小倉競輪場はありました。毎年11月が競輪祭の開催でしたから、その時期の小倉はとても寒く、風が強く、そして時にはみぞれ混じりの中、走った事もある競輪場です。ケイリンGP1996出場はこの競輪祭で決定しますから、どの選手(殆ど先輩)のピリピリ感は今とは全く違って殺伐とさえしていました。
 そんな中、初日からオーバーワークの様な重さでやっとの思いで準決勝まで進出しました。その準決勝では群馬の後輩、当時スーパールーキー69期生・稲村成浩選手との同乗です。1990年に前橋競輪場がドーム型のバンクに変わり、グリーンドーム前橋が新たにオープンした年を記念して世界選手権が行われました。稲村選手は宮城県・斉藤登志信選手とタンデムスプリントで銀メダルを獲り、【ドームの申し子】とまで言われる様になりました。その稲村選手はデビューしてからもA級を3場所で特別昇級!そしてなんと一宮記念G3でいきなり優勝!正にスーパールーキーの走りでした。その稲村選手との同乗は心強い存在でした。当時の競輪界は【神山】【吉岡】【山田】の3本柱でしたから、私は稲村選手をしっかりと援護して2人で決勝戦に乗ろうと作戦を綿密に立てた思い出があります。
 レースが始まり、打鐘で単騎の紫原政文選手がイン切りをして来ました。私達の3番手狙いだったのだと思います。すかさず稲村選手が最終HSから仕掛けて先行。踏み出した瞬間に「これは行ける!」と感じました。稲村選手の先行はグイグイ加速をしていき、最終BSでは誰も捲くって来れないだろう!という感じでした。しかし、競輪界の3本柱の1人山田裕仁選手が後方でそのままという事は絶対にありません。私は何度も後ろを振り返り、けん制の機を伺っていました。すると3コーナーで後ろから物凄い風切り音が迫ってきたのです!山田選手でした。私はその瞬間「ヤバイ!行かれる!」と思い、体を当てに行きました。それでも止まらない勢いです。山田選手をマークしていた小橋正義選手が離れる程のスピードでしたから、体を当てただけでは止まりません。私は更に頭を山田選手にひっかける形で何とか阻止しました。すると山田選手の後ろに切り替えていた児玉広志選手が最終4コーナーで突っ込んできたのです。最後の直線は外側の児玉選手と紫原選手、そして私の3人の争いになりました。私は稲村選手の頑張りのおかげで1着で決勝戦進出を果たしたのです。
 2つ目の準決勝では栃木県・神山雄一郎選手は落ち着いたレース運びで貫禄の1着。3つ目の準決勝は地元福岡県で私と同期の吉岡稔真選手が打鐘から先行して楽勝の1着で決勝戦進出を果たしました。関東では神山雄一郎選手と私の2人。検車場では記者さん達から「関東黄金ラインですね!」と言われ私は、優勝戦に乗れてケイリングランプリに出場出来そうな嬉しさを噛み締めていた時に「えっ!マジかよ!」という出来事が起こったのです。単騎の香川県・児玉広志選手が神山選手の番手を主張してきたのです。児玉選手といえば高校時代から因縁のある間柄、、。何かあると言い掛かりを付けてきたり、絡んでくる、、。私は「面倒くせぇなぁ?児玉さんのいい所はすり抜けて突っ込んでくる所でしょ!」と思うと同時に、独特なフレームと乗車フォームをしていた(後に多くの選手達が真似をしてブームになった)ので、失格をしないで走り切りたいと思いました。明日の決勝戦が競りとなり、気合いの入った児玉選手は、宿舎ですれ違う度に「ヨッシャー!」とか言ってくるし、せっかくくつろぎたいお風呂でも湯船に浸かっているとスーッとどこからともなく近付いてきて「いわしたる!」とか「◯見るデェ!」とか言って来るし、サウナに移動しても隣にピタリと座り、「シャー!」と言いながら、「先に出た方が明日も負けるんじゃー!」と言ったと思ったら意外と我慢できなかったのか??アッサリと「この辺で勘弁してやるわい!」と出ていくわで、勝負なのか?仲良くしたいのか?よく分からない準決勝の夜を過ごしました(笑)。
 そしていよいよ決勝戦!吉岡稔真選手VS神山雄一郎選手のメンバー構成で、逃げる吉岡選手をどこから神山選手が捲るか?人気も吉岡=神山と吉岡=加倉・神山=後閑に集まっていた様に思います。しかし、自分の隣には児玉広志選手が並びます。体格差のある私への心理作戦なのか?児玉選手はウォーミングアップの時から私の近くに現れて何やら呟いていました!そして私の自転車の前でも何やら呪文の様なことを唱えてクジの様なものを切っていました。私は後ろから児玉選手へ近付いて「俺の自転車の前でお寿司を握るのはやめて下さい!」と言ったところ、いきなり振り返り「ナンじゃ(怒)覚えとけ!いわしたる!」と逆ギレされた事を思い出します。
 レースは神山―後閑で前を取りました。私の横では児玉選手が並んでいます。周回中から隣で「ヨッシャー!オラー!」と相変わらず気合いを入れています。後ろから抑えてきた吉岡選手の後ろも加倉選手と金田健一郎選手が競り合っています。打鐘から先行態勢に入った吉岡選手に対して一旦後ろに引いた神山選手。後ろは入れ替わり、内側に児玉選手。外側に私となりました。3コーナーの入り口の登り坂、スローからの踏み出しに私の弱点が露呈されました。どうやっても遅れてしまうのです。マーク屋としてここは早急に治さなければ!と思いました。でも当時は力もありましたから、その後はつき直して最終BSを通過。すると後方から児玉選手が残りの力を振り絞り捲くってきたのです。児玉選手に合わせる形で神山選手も3コーナーから捲り追い込みに行くのですが、私は児玉選手と絡み、付いていく事ができませんでした。神山選手の鋭い加速力に対応しなければその先はない!という課題と、レースでは一度怯むともう取り返しは出来ないという事をあの時私は経験しました。結果は5着でグランプリ1996の出場も決定しました。しかし、自分としては悔しくて甘さを噛み締めた26才の競輪祭でした。

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