不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第117回 神山さんは兄貴のような存在  2020年12月25日

 前回でも触れましたが、私と神山雄一郎選手の絆というのは、私からするともう兄貴のような存在だと思っています。高校時代から全国区のスーパースター・栃木県作新学院出身の神山雄一郎選手は、本来であれば「ツール・ド・フランス」の日本人初の選手を目指していたのですが、最終的に「競輪選手」の道を選んだと言いますから、神山さんがロードの世界を選んだとしたらを考えると、今の私がいないわけですから、神山さんには競輪選手を選んでくれて本当に良かった!と思うばかりです。
 私と神山さんのタイプの違いとしては、神山さんのお父様が自転車ショップを営んでおり、幼い頃から自転車に乗り一日中走り回っていたそうです。驚いたのは小学校の時、お父様と栃木県から日光の山を登り、そのまま群馬県の赤城山から中之条を抜け嬬恋村へ、そして長野県に入り浅間山の鬼押し出しを周り、また栃木を目指して帰って来た事もあるというお話も聞いたことがあります。距離でいうと300キロは超えていると思いますし、しかもずーっと山道ですから私は全く想像が出来ませんでした。そして更に驚いたことは、お父様はロードレーサーだったようですが、神山さんはまだその当時は小学生、ロードマンという当時流行ったスポーツタイプの自転車(ライトも籠も後ろに荷台も付いた)重い自転車だったようです。そしてなんと!盆栽もお好きだったお父様は浅間山で気に入った盆栽を購入し、神山さんのロードマンの荷台にくくりつけ「ヨシ!帰るぞ!」神山さんはロードマンに荷台に植木を積み、更に重くなった自転車で走り抜いたそうです。それ以外にも日頃から、暇さえあれば遠乗り200キロ、300キロは走っていたようですので私を含め、そこらの競輪選手とは基本的に走行距離が全然違うのです。
 そして何と言っても自転車好き!自転車への愛着と情熱は誰にも負けていないと思います。その話を聞いていた私は、いつも記念競輪G3や特別競輪G1で神山選手をマークし後ろから見ていたのですが「神山さんは走行距離が違うんだよ!」と安心して付いて行っていた事も覚えています。私は時代が変わってもこれだけは変わらないと思います。それは若い時にどれだけ走行距離を走ったか?だと思います。人は必ず平等に年を重ねますから、10代・20代・30代・40代とその年代に合わせた練習が必要になって来るのです。私のイメージですが、「がむしゃらに乗り込む10代・20代」「ふるいに掛ける(効率)30代」「集大成の40代!」と時が過ぎました。神山さんの場合は10代・20代に私の何十倍の距離を乗っているわけですからベース土台が違う!私と2歳しか違わないのに、生涯獲得賞金も私は13億円に対し神山さんは30億円。勝利数も私の551勝に対して、神山さんはなんと879勝で900勝が見えるところまで来ています。私は力尽き引退しましたが、神山さんは未だS級1班でバリバリ活躍している超の付くほどの「鉄人!」な方なのです。
 神山さんはお金よりも自転車が好きで競輪競走をして賞金が付いてくるタイプに対して、私は相棒のピストレーサーは大好きですがロードレーサーなどには興味が無く、高価なロードレーサーを買うなら、ハマーやフェラーリ、ランボルギーニのホイールに興味が行ってしまうという、、。まあ人それれぞれ価値観やモチベーションに火を付け方は違って良いと思いますが、神山さんは優等生で完璧!競輪学校の成績も61期生NO1で卒業記念チャンピオン!朝練習も毎日暗いうちからやっていたそうです。そして皆勤賞に学業優秀賞ですから、後にも先にもこんな方はいないのではないでしょうか?そんな神山雄一郎選手を間近で感じながら私は本当に運がいい!神山さんには感謝しかありませんし、今でもその気持ちは変わっていません。この先、プロスポさろんではそんな神山さんに対して何度もやらかしてご迷惑をかけてしまった事も書こうと思いますが、いつも笑顔で「しゃーねえ~ だいじだ~」に救われる事になります。神山さんとの道のりを辿れば辿る程、思い出はあふれ出てくるので今後、数回に分けて書いて行きたいと思います。

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