不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第120回 力になったファンの声援  2021年2月19日

 開き直りと諦めない精神は競輪選手には特に大切だと思います。伊東G2東日本王座決定戦の初日に落車して手の親指を骨折、我慢して決勝3着で終われたのですが、今思い返すと私は追い詰められた時に開き直れたから、そのシリーズを最悪の中でも最高の結果に結びついたのではないかと思います。東日本王座で骨折をしても私の気持ちは落ち込みませんでした。その時の気持ちは前回の苦境を乗り越えた経験と自信!次の日に病院に行くと石膏で固められてしまいました。2ヶ月後には防府G2ふるさとダービーも控えている。でもその前にレース(実践)も走っておきたい気持ちもあるので、体力を落とさず一日も早い回復に全力を尽くしました。
 当時は薬局に行きカルシウムやビタミンC、コラーゲンなど、食事も含めて特に意識して採った事も覚えています。あとよく行ったのは本屋でした!買う物は先ずは現実的に今必要な、骨の仕組みの書いてあるものを手当たり次第に買って読みまくりました!それと早く治すために外車の本も買いました。早く治してまた稼ぐ!というやる気を出してドーパミンを分泌させるのも大切な事!その気持ちは幾つになっても変わりません。手は石膏で固めてあるので痛みはあまり感じませんでした。2日後にはスクワットや手を使わないトレーニングから始めました。ランニングは振動が痛かったのを覚えています。腕立て伏せのスタイルで肘を使い肘立て伏せの様な格好になり、そのままの姿勢で何分耐えられるか?みたいな事もしていましたので、今思うとそれなりに理にかなった事はしていたのかな?と思います。実践を2場所くらい走りました。勿論ラインに目標がいない時は先行に徹して脚を作りました。
 そして迎えたG2ふるさとダービー防府。初日の特選では何とか3着までに入り2日目の優秀競走へ!という事だけに集中しました。しかし、絡まれ5着と振るわず悔しい思いをしました。余談ですが、ファンの方から見て防府競輪場は2コーナーからバックストレッチにかけてフェンスの代わりにアクリル板となっているのですが、よく見るとのぞき穴が並んでいるのが分かると思います。そこから選手達は毎レースを並んで見ています!私も覗いていたのですが、ちょうどそこが2コーナー、しかも333バンクで伊東のトラウマが甦ってきたのを覚えています。それから場所を変えたり色々自分自身をごまかして過ごしていたな~。当時はそのくらい恐怖心とも闘っていました。2次予選は1着で通過!レース後に痛めた親指を庇い手首に激痛が走りました。医務室で氷で冷やし、せっかくの準決勝、何が何でも走ります!と管理の方に告げました。伊東G2の時を思い出せばなんてことは無い!完全に私は心理的限界が広がり、自分でも一回り大きくなったようにも感じたし、ピンチ=開き直る。というシステムが自分の中で構築できるようになっていたので、ずっと頑張れていたのだと思います。痛い→ピンチ→どうしよう、、。という戸惑いやマイナス思考ではなく、考えても仕方がないからやるしかない!その中でベストを尽くせばいい。という回路が根づいた時期でもありました。そうなると気持ちは楽になり、その大会も準決勝はクリア!決勝戦も捲りを出してG2の決勝戦の続けて3着という結果をおさめる事が出来たのです。当時はこの時期にG2開催も多く、私はG3記念まわりでしたから賞金も稼がせて貰いました。なのでちょっとやそっとでは弱音を吐かず痛い思いも乗り越えられたのかもしれません。
 競輪場に行けばたくさんのファンの方の声援がありましたから、その中から「後閑!」「頼んだぞ後閑!」と私を応援してくれている声を探してはどれほど力となり、自分だけの能力と力では出し切れなかったアドレナリンが出た事か!と思うと骨折しても走れた理由が「ファンの皆様の声!」だったかという事が分かります。S級に上がると一流の選手ばかり、ましてやG2やG1になると上には上の選手がいます。最初は他の選手に対しての声援の中から私に対しての声援を探すかのようでしたが、そういった私の何度でも立ち上がり這い上がってくる姿に、少しずつファンの方が付いて下さるようになってきてくれたのではないかと思うくらい声援は多くなっていきました。骨折をしながらも大レースでも怯まない心が身について手応えを掴んだ私は、「タイトルに最も近い男!」と言われるようになってきていた事もあり、休む事もせずにテーピングを巻きながらぶり返す痛みにも耐え、その翌月に控えた大津琵琶湖競輪場で行われるG1高松宮記念杯競輪に向けて猛練習をしたのです。

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