不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第82回 固く重いフレームがステータス  2019年12月2日

 私は稲村成浩選手のデビューにより、更に刺激を受けて私の成績は上がって行きました。彼の天性の回転力としなやかさ、鋭さは後ろにマークしていても見事でした。自分にはないものを彼は持っている!脚の引き上げがスムーズに回る!そして猫やチーターの様な、しなやかで鋭い乗車フォームなど、たくさん勉強する事が出来ました。
 そういえば脚の引き上げと言えば、高校生の時から新選組でお世話になり、後に2つのタイトルを勝ち取った群馬県・高橋光宏選手も、やはり踏むというよりは脚の引き上げを主に推進力に変えていた走りをしていた様に思います!真似をして引き上げる技を身に付けようと取り組みましたが、私は幼い頃から体が大きく、何でも力でねじ伏せてきたので、レースでも打鐘までは良いのですが、その後にスイッチが入り必死になってしまうと、自然と体に力が入ってしまい、踏み脚一本になってしまいます。幼い頃からのデータは中々アップデート出来ないものです!しかし、まだこの時点では23か24歳くらいですから、1周半踏みっぱなしでも記念競輪は年に3回~4回は優勝出来る様になっていたので、暫くは【踏んで返す】ペダリングで乗っていました!
 更に後から分かり、感謝しているのは私の愛車メーカーの【レミントン】サイクルの春日さんです!春日さんは期でいうと35期。中野浩一さんと同期で試験を合格しましたが、体調を崩してしまいフレームビルダーに転身しました。【ナガサワ】中野浩一さんの愛車メーカーの弟子となり、修行をし群馬県前橋市に店を構えました。春日さんのフレームは溶接部分にビスを打つので、パイプの繋ぎ目が非常に固く作れるのです!ですからフレーム自体は全体的に固い!しかし、固いということは力が逃げないので、踏みこなせれば半端なく進むのです!しかもその時はフレームの構造や角度の役割り等、私は何もわかりませんでした。師匠の新谷隆広選手に了解をとり、わざと私のオーダーより固くて重いフレームにしていたと後に聞いた事があります。専門的になりますが、因みにオールNo.3だったと伺いました。現在の若手の選手は、フレームが【固い】、【重い】と感じると、柔らかくて軽いフレームに乗りたがりますが、私の若い時は固くて重いフレームを踏みこなせるのがステータスだと思い込んで、軽く感じるまで山登りをしたり、バンクでハードにもがいたりして脚力を上げて行ったのを覚えています!私はレミントンサイクルの春日さんに出会えて本当にラッキーで有難いと今でも感謝しています!
 そりゃ~その後も脚は強くなるばかり!同期の吉岡稔真選手や海田和裕選手には遅れをとっていましたが、着々と追いかけている雰囲気は掴んでいました。成績は上がり、西武園記念は赤板先行で逃げ切り優勝!次走の防府記念もまくって記念競輪連覇!そして娘の百合亜が3歳を過ぎる頃に次女が生まれるなど、全てが充実していました!
 家にはワンボックスがなかったので、NSXを売却してエスティマを購入しました。当時のエスティマは【天才卵】と言われており、新幹線の様なフォルム!どうせ買うならとグレートの高いものを買ったので、結構な金額しました。NSXを売却すると自宅のガレージが何だか地味目、、?黒のメルセデスS600フルロリンザーと黒のエスティマ、、。うーん!イエローのNSXの存在感はやはり大きかったのかあ~と、煙草を吸わない私は煙草代わりに車の本を穴が開くほど見る様になりました。当時はまだ携帯電話も普及していない時代ですから、毎週の様に本屋(文真堂)に駆け込みました!車が欲しくて堪らない症候群!の始まりです。、、という事で考えた結果、イジれる(カスタム)車にしようと新型のセルシオを増車しました。エアサスで乗り心地もよくて内装は本革Cパッケージ!総額700万円はしましたからいい車です。色はあえてのパールホワイト!そして稼いだ時や頑張った時にこのセルシオを徐々にカスタムして行こう!と思い気付いたのが、これが私のモチベーションとなり、私は現役中ずっとプラモデルを作る様な感覚で子供の様にクルマのカスタムにハマって行ったのでした!しかし反面、成績が落ち「この生活に相応しくない」と思った時には手放す!と決めていたので、常に自分の走りと自問自答していました。競輪選手の当時S級1班で平均3000万円以上は稼ぐ時代ですから、当時24歳にしてそれ以上稼いでいた私は税金も残しておかなければなりません。ですから怪我をしたり、長期欠場をしてしまうと、家族が増えた私には家は売れないので、クルマを売らなければならない現実と直面するので天国と地獄。栄光と挫折の表裏一体な部分はありました。しかし、それも今思えば良い刺激だった様に思えます。

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