不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第97回 絶好のチャンスを逃がす  2020年4月20日

 年明け早々のビッグレース、花月園競輪場で行われた第9回共同通信社杯は1失欠となりましたが、そのまま次の日の早朝から練習に打ち込みました。手応えはある!気持ちは常にポジティブでした。今やらずにいつやるんだ!朝から晩まで自転車に乗りました。酒もタバコも飲まない私は、付き合いでたまに街へ食事に出るくらいで、練習するか家にいるかどちらかの生活を送っていました。「そんな生活で楽しいの?」と言われる事もありましたが、酒を呑みワイワイ!ガヤガヤ!そんな場が一番の苦手な場所でしたから、その辺はしっかりと流されずに出来たと思います。私の勝ちへの拘りは付き合いの悪さだと思います。その辺は20歳で結婚をしたのがよかったのだと思います。妻は高校を卒業と同時に私と結婚をしてくれました。妻18歳です。そして妻が19歳の時、長女の百合亜が生まれました。普通であれば大学へ行ったり友達と遊びたい年です。私はそう思うとその分、人より美味しいものを食べさせてあげたい、たくさん旅行や同年代では経験の出来ない思いをさせてあげたい。そんな想いが私の励みとなり、常に家族で楽しみを共有しながら歩んできました。美味しいものを食べれば「妻にも食べさせてあげたい!」ともう一度同じ店に連れて行ったり、北海道や沖縄など合宿で行った際に綺麗な景色を見ると、必ず再度、家族で訪れ同じ景色を見てきました。そして妻や娘の喜ぶ顔を見て頑張れる源にしてきました。大好きな車に大好きな家族!他には何もいらない集中できた環境です。
 1ヶ月はあっという間に経ち、G2ふるさとダービー防府で決勝3着!その後、ダービー・高松宮記念杯競輪と振るわず迎えた真夏のいわき平全日本選抜決勝戦、当時はまだ旧競輪場。懐かしい、、。癖のない軽いイメージのバンクでした。茨城県・十文字貴信選手と同乗、番手を回る絶好のチャンスが巡って来ました。特別競輪G1初制覇が目前!しかし、私には少し不安な気持ちもありました。それは前年の寛仁親王牌決勝戦で強烈な十文字選手のダッシュ力に、踏みだしで遅れたあの嫌な感覚が甦って来たのです。付いていけるか?大丈夫!大丈夫!先踏みで合わせれば、、付ききってしまえば問題ない!そんな思いを自分に言い聞かせながらレースに挑みました。
 打鐘で十文字選手がカマシ気味に叩いて先行。踏み出しで少し遅れ気味になりましたが、何とか付ききりました。あとは「ターボ捲り」の本田晴美選手と、「グランプリレーサー」の金古将人選手の捲りを止めて十文字選手とワンツーでゴールを目指します。3番手には千葉県・鈴木誠選手も固めてくれていますから、迷惑をかけないように、、と思いながら後方を確認すると、最終BSから「ターボ捲り」の本田選手が勢いよく捲りを仕掛けてきました。本田選手の後ろには香川県・児玉広志選手がマークをしています。私は2センターで本田選手と自分のスピードの合うのを感じました「行ける!もらった!」私は十文字選手をギリギリまで庇おうと本田選手を引きつけ、いざ!ゴールへ、、!と思った瞬間に落とし穴はありました。ダッシュ力のある選手は踏みだしに力を使うので、後半スピードが持たないという傾向にあります。そこで私はミスをしてしまいました。本田選手ばかりけん制していた私は、先行する十文字選手の失速スピードを把握し誤り、抜け出す時にキレよくスムーズに交わせなかったので、伸びを欠いてしまいました。ヤバイ!と思いました、、しかし本田選手の勢いも治まったと思った瞬間、大外を児玉選手が伸びて来たのです。私は必死にゴールを目指しましたが伸びがイマイチ!内側からは鈴木選手も中を割って来ました。思い切ってハンドルを投げた結果、優勝は児玉選手!お見事な伸び脚でした。2着には内側タイヤ差で鈴木選手に交わされ私は3着という結果になりました。
 G1の表彰台に乗ったものの悔しい恥ずかしい思いでいわき平競輪場を後にしたのを覚えています。帰りの常磐道が長く感じました。決勝3着でも落ち込む複雑な状態、、。この思いは翌月のオールスター競輪で今回の課題をしっかりと修正し、鬱憤を晴らそうと翌日から追い込んだ練習をした思い出があります。それと同時に、そろそろ8月頃からケイリンGPの賞金のピリピリが始まったのも感じました。年末に切羽詰まらないように頑張らねば!次のオールスターでは絶対に落とせない!そんな思いで必死だった1997年の8月でした。

ページトップへ