不撓不屈・ボスの自転車人生

不撓不屈・ボスの自転車人生

後閑 信一 後閑 信一 ごかん しんいち 元競輪選手  平成2年4月に65期生としてデビュー。落車による大ケガや数々の困難を不撓不屈の精神で克服。第46回競輪祭、第15回寛仁親王牌、第56回オールスターとG1で3V。面倒見いい親分肌と風貌から〝ボス″と称された。平成30年1月引退。通算成績は2158戦551勝、2着311回、3着255回。

第100回 満身創痍ながら準優勝  2020年5月12日

 そしていよいよ平塚オールスター競輪の決勝戦です。我が同期の吉岡稔真選手は準決勝戦で内側に包まれてしまいまさかの敗退。お客さんはファン投票1位の神山選手と2位の吉岡選手の一騎打ちを見たかったのではないでしょうか?しかし、私からすれば勝てる確率が上がるわけですから「よっしゃー」と思っていました。第40回オールスター競輪決勝戦のメンバーとラインは(神山雄一郎ー戸辺英雄)(伊藤保文)(太田真一ー後閑信一ー浜口高彰)(高谷雅彦ー遠澤健二ー高橋武)の9選手。
 そして今回の決勝戦は当時、プロレス実況やテレビで見ない日はない名司会者の古館一郎さんでした。私が言うのもおこがましいですが、競輪界もこの頃から様変わりしてきたように感じました。選手達は殆どの人が目立ちたい!という気持ちが強いと思うので、それは俄然モチベーションが上がったのではないでしょうか?私はかなり影響を受けたし、気持ちも上がったのでこのオールスター競輪で頑張れたのだと思います。1番車・「青森じょんがら」高谷雅彦!2番車・「暴れるか埼玉のパパラッチ」太田真一!3番車・「全国ヤンママのアイドル」後閑信一!4番車・「神山と鉄壁ライン」戸辺英雄!5番車・「角刈りの湘南ボーイ」地元、遠澤健二!6番車・「逞しき青二才」京都、伊藤保文!7番車・「小山のヘラクレス」神山雄一郎!8番車・「小田原のマッチョマン」高橋武!9番車・「岐阜の走る鵜匠、スコーピオン」浜口高彰!といった様に発走機に並んだ選手を一人一人ニックネームを付けて紹介していくのです。当時も特別競輪G1では決勝戦のみ民法放送での中継でしたので、テレビの力は凄いもので、このオールスター以降の開催では、私の入り待ちや出待ちの時にはベビーカーを押すヤンママ集団の方が多くなり、プレゼントも私の持ち物をリサーチしてくれて、当時愛用していたベルサーチのネクタイやストールなど、頂いた思い出もあります。
 話はレースに戻りますが、号砲と同時に神山選手がスタートをきりました。後ろを戸辺選手、伊藤選手と追いかけ、中団に高谷選手が取り、遠澤選手・高橋選手の地元勢が続きます。私達のラインは後ろ攻めからとなりました。超満員の平塚競輪場!お客さんの大声援!2週間前の練習中の落車、鎖骨と肋骨3本を骨折した体で、この決勝戦を走れている奇跡に近い状況!しかし、落車をすれば鎖骨に針金を入れたばかりなので、その針金が曲がってしまったら二度とその曲がった針金は取る事が出来なくなるリスクは承知で走っていた私は、不安と痛みを押し殺して精神的にも肉体的にもギリギリの状態でした。「あと1レースだけ!」すべての力を振り絞る!一走入魂の思いで挑みました。周回は変わらず進み残り2周の赤板過ぎに太田選手が上昇しました。その動きを見た中団の高谷選手も合わせて前に踏み上げると、一番前にいた神山選手が上バンクまでけん制をしてきました!(当時はまだイエローラインがなかったのでレースも色々なバリエーションの動きがあって面白かったと思います)神山選手のけん制に高谷選手は挟まれる形となりましたが、太田選手はその外を強気に踏みあげて打鐘を迎えました。先行態勢の太田選手に中団の内側に神山選手、外側に高谷選手となりましたが、すかさず強引に高谷選手が残り1周で太田選手を叩きにきました。私は勝ち上がりで高谷選手をマークしていましたので、高谷選手の強さ、そして今回の出来も肌で感じていました。最終HSで高谷選手は私の横を通過していきました。私はけん制の一つも出来ませんでした。ただただ必死に太田選手に食らいついていく!そう思った瞬間、満身創痍だった私は視野が狭かったのでしょう。太田選手が外側にスライドしながらスピードが緩んだ様に感じたのです。私は走る前に太田選手が「全開で行きますのであとは何とかして下さい!」その言葉を思い出して早い位置ではあったのですが、一緒にスピードを緩めてしまったら神山選手にひとまくりをされてしまう!と思ったのです。そして体も限界!前に踏むしかなかった、、その結果、太田選手は私の真後ろに入る形になり、先頭が交代する形になりました。そしてスピードが落ちなかったため、後方の神山選手は更にまくりずらくなっていたと思います。あとは各選手、ファン投票で選んでもらったという思いから全力疾走でした。私もそうでした。因みにこの第40回平塚オールスター競輪のファン投票は、1位神山雄一郎選手・2位吉岡稔真選手・3位十文字貴信選手・4位滝澤正光選手・5位児玉広志選手・6位小橋正義選手・7位は私、後閑信一・8位山田裕仁選手・9位井上茂徳選手の順でした。私も7位で選んで頂いたからには「このレースで人生終わってもいい!」と思っていました。ゴールまであと少し、私は頭を上げてもがくと鎖骨が揺れるので、真下を見てもがいていました。頭をよぎったのは、真後ろに入った太田選手が回復をして私の後ろから差し込んでくる!そして太田ー後閑でワンツー結果オーライ。そんな思いで最終4コーナーを迎えた様に記憶しています。するとその外からあり得ないスピードで捲り狼・神山雄一郎選手が通り過ぎていったのです。
 結果、優勝は神山雄一郎選手・準優勝は私、後閑信一・3着には長い写真判定の結果、太田真一選手となりました。神山選手は表彰台で「ファンの皆様にこの場でお礼が言えて良かったです!」と言っていました。そしてその後、私と太田選手がオープンカーで表彰台へ向かい優勝した神山選手と3人で平塚バンクを周り、応援して下さったファンの皆様へ手を振っていたのを思い出します。とても気持ちの良いひと時で、私は直前に怪我をして不安な中、走り切れてしかもオールスター決勝2着になった達成感と、ホッとした思いと、今年の競輪グランプリに一歩近づいた!という思いと嬉しさとワクワク感で片付けをした思い出があります。ホッとしたのか、グッと痛みと疲れが押し寄せてきて、後輩の金子真也選手が何から何まで手伝ってくれたことを思い出します。レース前のテーピングや擦過傷の手当て、風呂でも不自由で手の届かない所などを洗ってくれました。そしてレース後も肩を貸してくれたり、今でも本当に感謝をしています。私は金子真也選手や後輩にも恵まれたからこそ、今回の成績を残すことが出来たと思っています。
 帰りもたくさんの出待ちのファンの皆さんに囲まれて平塚競輪場を後にしたのを覚えています。私はこの開催を乗り越えた事によって「あの状態(2週間前に練習中の落車、10日前に鎖骨骨折の手術をして肋骨も3本骨折したまま)座薬を入れて痛み止めを飲み特別競輪G1を乗り切り、しかも準優勝!」この時の頑張りが私の後の糧になった事は間違いありません。人は必ずどこかで自分の中での「死闘!」と思えるレースの時が来ると思います。その回数が多くても、苦難を乗り越えて行く力が付くと思えば決してマイナスではないと思えた貴重なシリーズでした。

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